「伝来と伝世と日常と」
古今東西の焼きものをふわりとつかんで、和でも洋でもあるような佇まいの器をつくり出す中田雄一さん。石川県金沢市にある町屋を改修した工房を訪ねてみると、中田さんが一つ一つ手繰り寄せたものが、場の時間や空気を描いていました。白釉と色絵、独自の解釈を携えた物づくり、その歩みについて伺いました。
再びの焼きもので
焼きものは大学で始めたんですけれど、実は一度離れていて、30歳になった2010年頃に再び始めました。
大学時代から轆轤は下手だったんです。形を揃えるのも苦手だし、当時は忍耐力もなかったですし。ただ、私には轆轤しかなかったので、轆轤でできることを考えてやり続けていた時に、16~17世紀の古い焼きものや色絵と出逢ったんですね。
「あ、これだ!」と思う経験が何回かあって、それは「頭で挽かなくていいんだ!」というもの。身体尺というか、身体の感覚と動きを並べるだけで、轆轤って挽けるんだという共感です。「この時代の人も、こんな感じでつくっていたのか」と気づいた時に、ずっと自分は一人だと思っていたので嬉しかったし、自分の気持ちに余裕が生まれたんですね。その経験があるからこそ、今、轆轤が好きなのかもしれません。
自分では今も轆轤を挽けるようになったとは思っていないんです。ただ、この形とこの体をいちばん効率的に配置したら、こういうものができるよねっていうことを、すごく単純化して轆轤を挽いています。
それと、つくるもののサイズ感もかなり絞っています。上手な人はすんなりその形にできるんですけれど、私は誤差がプラスマイナス3ミリあっても同じ形に見える、そういう形を探しています。ピタッと同じ形につくるのではなく、誤差があっても全部同じに見える形。同じ樹種だと、葉っぱの大きさがいろいろでも、同じ葉っぱだってわかる。あの感じが自分は好きなんです。技術を高積みするより、横に積んで並べていくみたいな仕組みでつくっています。
とにかく土が好きで、すべての瞬間に「きれいだな」と思うところがたくさんあって。技術的なことも、まだ解明されていない、陶芸史にも出て来ていないものがおそらく存在していて、そこへの興味とか憧れみたいなものもありますね。
制作と日常の繋がり
以前は土を自分でも採っていたんですけれど、2021年頃から土をつくったりとか、焼きもの的であったりすることを、あえて外すようにしています。私の場合、それまでのアプローチ方法は、いい作品をつくろうという頭になっていて、実は素材が置き去りになっていることが多かったんだと気づいたからです。
今はどちらかというと、版画とか日本画とかの要素を取り入れていきたいなと思っています。版画は摺ると、版と反転した物が出てきますよね。変な発想に思うかもしれませんが、例えば、仮に自分自身がその版の役割だったらどうか。この形が反転して出るとどうなるか、みたいなことを身体ではかるイメージです。最近はもうしていませんが、右利きなので、左手で土をつかむ練習とかをしていました。
私は酒盃と茶杯をつくる時期がそれぞれに決まっていて、同じ形で数を揃えるものに関しては、サイズをほとんどはからずに、そのつかみの中でつくっています。どれだけ土をつかんでいるか、握っている手の中にあるか、という感覚を練習して轆轤を挽くんです。ふだんから練習をしておきたくて、家でお寿司屋さんごっこをして、シャリを左手でつかんだりしていたことも(笑)。左手で同じ分量を取れるようになってくると、轆轤も結構面白い物が挽けるようになってきて。あと、小指とか薬指とか、いちばん反応しにくいところを反応させてあげると、器に出汁が利いてくる感じがあって全然違うんですよね。表面上でつくらなくなるんです。
そういう体感から、轆轤も絵付けも、実際の作業をしていない時間の影響を受けることがわかっているので、日常の暮らしの中でどんなふうに過ごすか、体の動き、意識の動きなどを大事にしています。私の焼きものは、ふだんの自分の暮らし方に支えられているんです。
白釉と色絵からひろがる体感
白釉でやっていこうと思ったのは2017〜18年頃です。そして、白釉をやるようになって、色絵もやるようになりました。それまで漠然としていたわからないことが、こういうことがわからないぞ、 こういうことを確かめたいなという感じで、パーッと道が開けて見える状態になったんですね。そこに引っ張られるように、今もつくっています。
白い釉薬ってどこの国にもありますよね。絵付けの器もどこの国にもありますし。なので、最近は土も釉薬もどこの国のものでもいいんじゃないかと思っています。
つくっている年度によって少し違いますが、毎回自分のテーマがあって、西洋の技法のジャンルではあるんですけれど、今は和との取り合わせとか、そういうものも考えて、ハイブリッドの白釉をつくっています。洋にも見えるし、和にも見える感じというのはとても好きです。骨董の伝来品や伝世品を見てきて得たものや、今の自分の暮らしの感覚や解釈が、そこに表れていると思います。
私がやっているイングレーズという技法は、上絵付けのように釉薬の上に絵具を焼き付けるのではなくて、釉薬の中に絵具を沈み込ませるんですね。なので、絵具の上にもう一つ線を描くことというのが、技術的にというよりも焼くという工程を経る分、すごく難しくて。最初の頃は、薄くて細い線は描けても、濃くて細い線は滲んでしまって描けなかったんです。濃い、というのは絵具の量が多いわけで、滲む量が増えるんですね。
例えば、花の模様を描く時の葉っぱは、緑色の上に葉脈の黒い線を重ねて描いているんですけれど、釉薬に絵具が沈み込んで先に溶けていくんですね。沈み込んでいながら、上の黒い線は細いまま滲まないように、全然反応していないという状態をキープできないと、線として認識できない、 ただの滲んだものになってしまいます。その沈まない硬さのつくり方みたいなものを考えるのは、絵付けというより建築的だなと思います。ここの柱を抜くと空間は広がるけれど家はちょっとぐらぐらしちゃうよねみたいな感じで、それじゃあ素材をどれにしようか、一つ一つの樹種をどう選ぼうかみたいなことを、絵具づくりでやっていくんです。 そういうところも面白いですね。
そうしたやり方をしているからか、今の自分にとって絵付けは、絵付けをしているのに、窯を焚いている気分なんです。絵筆で火に触れているって感じがすごくします。窯に入れて最初に熱が加わってくるところが、結構しっかりわかるんですよね。たぶん窯を焚いている方って、どこにどう入れるとどう火が当たるかってわかると思うんですけれど、それが絵付けでも感じられるんです。ここにこういう火の熱があるといいなとか思いながらやっています。
風通しの良いところへ
絵付けも轆轤と一緒で、やっていることは身体運動なんですね。もっといろんな人に、それぞれの手の温度とか場所とかで見てもらえたら嬉しいなという気持ちだけはあるんですけれど、実際に作業をしている時というのは、身体的に引っ張られるような感じで絵を描いています。
いつも絵付けの作業は数物から始めていて、棚板の上にズラッと並んだ器に絵付けをしていきます。数物をこなしていると、だんだん絵筆と自分が馴染んできて、考えとか意識とかそういうものがだいぶんほぐれてくるんですね。全然何も考えないくらいになるまで数物をこなして。そこまで行ったら、一点物の茶碗や酒盃、水指などの絵付けをします。その日の気温や湿度で絵具の乾きが違うので、絵具と水の合わせ具合とかも数物をやりながら確認できますし。そうやって数物から始めて筆を走らせていくと、やはり茶碗に取り掛かった時の打率が上がるというか。これは茶碗だからこれくらい素晴らしい絵を描くぞ、みたいな肩に力が入ったところからかなり遠いところにいられるので、すごく気持ちがいいんです。
全然知らない土地の知らない公園で、ふと座ったベンチが気持ち良くて「わぁ、いいな」と思うのと近い感じです。私にとって風通しも見通しも良さそうなところに行けるんですね。
絵とはどんなものなのか
よく何かを思い描くことを比喩して「絵を描く」と言いますよね。 何かの作戦を練ることもそうだし。みんながこうだったらいいなって思い浮かべているものって、もしかしたら絵なんじゃないかって思うところがあって。
空に流れている雲が「⚪︎⚪︎に見える」っていうのも、それはもう絵ですよね。簡単な何かが絵に見えたり、「何かいいな」って思う時にはみんなの気持ちの中に絵が浮かんでいたり。人間が共通してずっと思っている「いいな」がそこにあって。私は今そういうものをつなぐ仕事をしているのかなって思ったりするんです。
以前はクラフトの器をつくっていて、そこから徐々に白釉に移行して、2021年頃に青花カップというのをつくり始めました。描いているのは、花の印象なんですね。花が立ち上がればいいなと思いながら描く、いちばん簡単な花が、 私にとってはその青花なんです。
モチーフが簡略化されたデザインって面白いんですよ。和菓子の梅の花とか椿の花とかのデザインは、全然それそのものではないのに、それにしか見えないですよね。そして、割と遠くまで届くというか、大勢の人にパッと伝わりますし。 何かを美しいとかいいなとか思う、その正体というのは、結構自由なんだなと、そういう和菓子の型とか、洋菓子の型とかを見ても思います。
紋様に潜ませた想い
私が描く独自の不思議な模様に、おもちゃの玩具の玩と書いて「玩紋」というシリーズがあります。玩紋は、おもちゃのパチンコとかピンボールとか玉入れとか、竹をしならせて動かすおもちゃみたいなものをモチーフに、 おもちゃの一つのイメージを模様にしてみたものです。碗や茶杯、マグカップなどに展開しています。
記号的な紋様も好きなんです。例えば、ひらがなと英語が混じったデザインを見た人が、文字を認識する時のミスが、ひらがなと英語で似ているというのも、私にはすごく興味深くて。英語でも字を勉強し始めの頃って逆さ字を書いちゃうんですね。日本語もそうじゃないですか。 逆さ字を書くのは、 左右差とかを反転するっていう仕組みが脳にあるらしく、世界共通の身体感というか認識感だと捉えた時に、そこに平和的なものが生まれそうな気がしたんです。字を記号化したり暗号化したりすることで、何かちょっとクスッとなれたり、気持ちがゆったりできたりするものにつながったらいいなと。
マグカップなどの展示の際は、「55のマグと 22の⚪︎⚪︎」というシリーズを展開しています。 55って鏡に映して逆さにすると22に見えますよね。 数字や英語が混じっていると、見る人によっては同じ模様がMに見えたり、3に見えたり、Bに見える人もいて。 マグカップは使い終わって洗った時に、ひっくり返して伏せますから、そうすると見え方もまた変わります。マグという形の中で展開していく模様というのは結構面白いなと思って、続けているシリーズです。
酒盃のしつらい
現代のイングレーズをやっている人は、たぶん釉薬を掛けてから一度低い温度で焼いているような気がします。その方が絵付けをした時の滲みも少ないと思うので。
私もそうしているものもありますし、酒盃に関しては釉薬を掛けてから焼かず、生掛けした釉薬の上に、そのまま絵を描いて、1回だけ最後に焼いているものが結構あります。
酒盃の多くは、竹籠巾着もしくは木筒を用意して、そこに収めるスタイルにしています。
きっかけは、色絵と出逢って自分が描き上げてきたものが、しっかりと物として立っているな、自分の手を離れているなと思うようになった時に、この先も物は生き続けるので、人の手を渡る中で、器が裸のままでは可哀想だと思ったんです。
それと、作品以外のものからも作家を感じられることってありますよね。作品だけでは意外とわからないことも多いなっていうのは自分にも経験があって、その人がメインでつくっている素材以外のところに垣間見える、その人の言葉とか選ぶ目とかがあるとしたら、そこまで残してみたいなと。
そして、やっぱり「仕舞う」ことは、その仕舞ったり出したりする度に「はじめまして」の出逢いを何回もできるので、素晴らしい仕組みだなと。出しっ放しにするよりずっといいなということで、竹籠巾着や木筒を作り出したんです。
もともとの話をすると、桐箱が苦手だったというのも一つのきっかけです。桐箱なんていらないってずっと思っていたんですけれど、実際に桐箱を用意するようになってみたら、その桐箱をつくってくださる方の仕事に惚れてしまって。そこから古物の市とか交換会とかに行った時に、人の手を渡ってきた物の箱を見るようになりました。どんなしつらいで調えているか、とても興味深くて、自分の作品をどう仕舞うか、ということも考えるようになったんです。
最初につくった竹籠巾着には、上部の布の部分に白い三重ガーゼを使っていました。どこの国でも医療に使用している布です。そういうどこにでもあるものを用いると、人と人との間をスッと抜けるように物が存在するなと感じていて、自分が何かを選ぶ良し悪しの中にそういう基準があるんです。
言葉遊びと戒めと
「游中」「未象」と書いたカードを、茶碗などに付けていて、それを目にした人は謎に思われるかもしれませんので、それぞれの言葉の背景をお話します。
「
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漂いながらこの先へ
「游中」も「未象」も、いつ頃から名付けたのかはっきり思い出せませんが、ことわざ遊びがきっかけでした。ことわざ遊びは、再び焼きものを始めようと思った時に始めたんです。焼きものから一旦離れていたのは、自分の中で好き嫌いがわからなくなるほど、物をつくれなくなってしまったからでした。もう一度自分にとって何が良くて何が悪いかを考える練習として始めました。
「犬も歩けば棒に当たる」という有名なことわざも、どんな犬か、どんな棒か、どんな場所か、考えたこともなかったので、そういうことを一つ一つ考えるようにしたんです。それまで見ていなかったことを、つくる時も、誰かと話す時も、暮らしの中で一つ一つ見るようになっていくと、意外と思った以上に自分は変わることに気づきました。
考える練習をする中で、自分は身体感覚についておざまりだったということにも気づいたんですね。そこからは身体感覚の練習も始めて、右手と左手を同じように動かせるようにしようと思って。つくっていない時間も練習して、今は歯磨きも箸も両手でできるようになりました。とっさに出る手を左手で出るようにしたいと思っていますが、そこはなかなか難しいですね(笑)。
左手を使えるようになってくると、今度は自分の重心ってどこだろうかとか、どういう重心でつくりたいか、ということに発展するんです。ここにある椅子は、ただ集めているわけではなくて、椅子の高さだったり、物との位置関係だったりを検証して、自分に合うサイズ感を見つけて、それを 1 個のパーツとしていて、そういうもので今の工房を構成しています。
指のストレッチとか、全然物づくりに関係ないところの整理だったりとか、自分は全くしていなかったんですね。 ずっとお風呂に入っていない人が、急にお風呂に入ってすごくきれいになったぞっていうくらい、私は自分の変化にびっくりしたんです。こんなにしていなかったのかと。いろんな作家さんが、おそらくふだんふつうにやっていることを、私はずっとしないまま生きてきたんだって気づいて、その時は愕然としましたけれど。それを2018年頃から一生懸命、一から始めて、今もやり続けている最中です。
