篠原敬

Interview

Takashi Shinohara

Jun, 2022

Interview

中世に栄えた古陶「珠洲焼」


珠洲は能登半島の先端にあります。歴史をたどると、昔は日本海に開かれた土地だった、ということがわかるのでワクワクしますよ。古墳時代から中世にかけては、日本の玄関口だったと思います。

中世に全盛を極めた焼物というのは、すべて焼締なんですね。釉薬が伝わってくる前の焼物です。その中でも珠洲焼の特徴というのは「黒い」ということです。中世の六古窯というのは、初期の段階は黒っぽいんですが、だんだん技術改良して酸化焼成になって、少ない燃料で大量に焼ける、というふうに進化していきます。酸化焼成によって赤色になって、底も広くなって安定感のあるフォルムになっていくんですね。珠洲焼はどうだったかというと、そうせずに効率は悪いけれども黒を守ってきたという焼物です。小さな底から立ち上がるフォルムもずっと続いていました。




珠洲古陶には、稀に1200度以上に上がって灰が溶けている作品もありますけれど、大概は灰が溶ける前で火を止めているので、おそらく1100度ぐらいだったと思います。その代わり、1100度ぐらいで引っ張るんですね。それによってギュッと焼き締まるんです。特に焼締というのは、温度が達してからどれだけ長時間締めるか。珠洲の場合は、その締めた後に強還元で窯を密封するんですね。そこでさらにギュッと締まるんです。

中世の時代には、どこの産地も大きな甕、鉢、壺の3種類が主に作られていました。今みたいに食器や小物はほとんど作られていません。でも、珠洲はその六古窯と同時代にありながら、時々瓦を作ったり、仏像を作ったり、水瓶を作ったり。時代のニーズに寄り添っていたというか、他の太平洋側の古窯と比べて、そういうちょっと違うところもあります。

珠洲古陶は、京都の九条家という公家の荘園でした。荘園経営の一環として焼物は焼かれていましたから、京の雅とか、その文化の影響はおそらくあったと思います。また、フォルムにしても朝鮮半島の影響もすごく受けている焼物ですね。

黒にこだわったというのは、僕は日本海側の風土に黒が合うからではないかと想像しています。赤は太平洋側の太陽が燦々と降り注ぐ、冬でも暖かい温暖な気候の中で、あの赤が受け入れられたと。黒というのは北陸の厳しい冬。海の色もどんどん冬は鉛色になったり、でも四季がはっきりしていて、夏があったり。そういう風土と気質があって、ずっと最後まで使う側が黒の生産を支えた、ということもあるように思います。


室町後期に忽然と消滅


珠洲焼は中世日本を代表する焼物でありながら、室町時代後期に忽然と姿を消しました。その理由は諸説あるものの、まだすべて解明されてはいません。

長い空白の年月を経て、昭和30年代に珠洲焼が次々と発掘された時、考古学者からは「これは須恵器の退化したものだ。奥能登の後進性を示す焼物だ」と、最初はそういう評価をされたんですね。ところが調査が進むに従って「すごく雅のある焼物だ。フォルムも美しい」と真逆の評価に変わっていった。決して須恵器の退化したものではなくて、珠洲は朝鮮半島とも近いのでおそらく密に行き来したであろうとか、京都の公家の荘園であったこととか、そういう影響を強く受けた焼物だということがわかってきたのです。

今と中世とは全く違う時代なので、僕も想像するしかないですけれど、新しい物、人、文化、習慣が、大陸からも日本海側の交易を通じてもあって、珠洲は次々と情報が集まる場所だったのだと思います。そういう意味では開かれていたし、時代の先を行っていたのではないかな。珠洲焼のフォルムを見ても、加飾を見てもそう感じます。




手びねりで成形、叩き締める


中世の珠洲焼は、粘土を紐状にして、それを輪積みしてから叩いて成形していました。叩きは基本的には加飾ではなくて、土を叩き締めるという目的がまずあって。それは須恵器の時代からあったんですね。でも他の六古窯の産地では、叩いてもその跡を全部消すようになっていきました。珠洲は消すものもありますけれども、晩年まで叩きの跡は残していました。土を締めるという意味もありながら、最終的にはそれも一つの加飾になったのかなと思います。

後世の人が名前を付けたんですけれど、襷(たすき)のように櫛目を付ける襷文、波のように表現をする波状文。筆先を使って稲穂のような芒のようなものを描いたり…。そういう実用的ではないこともしているのです。それは何か京の雅に通じたりすると僕は思っています。陶工の遊び心でやったというよりも、おそらく需要があったのだと思います。単に種籾を貯蔵するだけでなく、それを見て愛でるとかですね。一般の農家ではそういうことはしないかもしれないけれど、ちょっとした有力者が飾りとして置くとか、そういうことがあったのかもしれません。

珠洲焼はお花が長持ちすると言われるのは、水が腐らないからなんです。目(叩き跡)がたくさんあればあるほど表面積は大きくなり、表面積が多いと蒸発していくスピードは速くなるんですね。そこで気化熱を奪う。そうすると中の水の温度も保たれるので、お花が長持ちするのです。これは僕の憶測ですけれど、中世はお花を生けるわけではなく、そこに穀物を貯蔵したり、水瓶にしたり。使っていて長持ちするということを、科学的というより経験値として中世の人たちはわかっていたんじゃないかと。それが一つ、叩きの特色ですね。


強還元による黒を継承


僕は珠洲市内の生まれです。窯を造りたいと思った時に、この環境がすごく気に入って。ここの土地の大家さんからも是非使ってと言われたので、ここに決めました。窯を造ったのは、今から26年前です。どんな窯を造ろうか、いろいろな窯を見に行きました。最終的に、穴窯というトンネル窯にしようか、地上式の今の私が造った窯にしようか迷ったんですね。当時は、焼物ブームで、焼締やるなら穴窯じゃなきゃダメだろうという風潮があったんです。それにちょっと天邪鬼で反してやろうと思ってこの窯を造ったんです。

最近は、還元をかけている作家は日本各地で見かけますね。でもそれは強還元ではなくて、弱還元ぐらいで表面だけ黒くするという感じです。ずっと酸化焼成で上げて、最後だけ窯を閉める時に還元をかけている。確かにそうすると表面は黒くなるんです。珠洲焼の場合は、割っても中まで黒いんですね。黒というかグレー(灰黒)なんです。それくらい還元をかけているということです。




僕が目指している中世の珠洲焼からつながるような黒というのは、表面だけでなくて、素地の中からしみ出るような黒なんですね。それには1000度手前ぐらいからどんどん還元で温度を上げていきます。完全酸化焼成ではなくて、還元状態を長く保ちながら温度を上げていく。最後に胴木間(どうぎま)という燃焼室に薪を詰め込んで、窯を密封する。焚き口から煙筒から全部密封するんですね。それによって最後の強還元状態が起きて、温度が急激にどんと下がる。自然に下がるのではなくて、急激に下げさせるんですね。

いっぱい薪をくべて遮断することによって、それで最後の黒がグッと決まって、素地もグッと締まる。そういうことをやっているのは珠洲しかないです。

僕の窯焚きでは、1回に薪は600束使います。窯の大きさによっては、もっと使う窯もあります。最近は、大きな壺から注文の小物、食器、酒器茶器など、全般に作っています。一番作っていて楽しいのは、やはり手びねりで作る大物ですね。窯に入るサイズというのは、入り口の幅になるので、今まで作った一番大きなもので、焼き上がって70~80センチぐらいですかね。壺、甕も作ります。用途というのはあまり作り手はこだわらないので、使い手が何に使ってもらってもいいという感じですね。傘立てにしてもらってもいいですし。




古陶に感銘、この道へ


僕は基本的には加飾をしないんですよ。これは僕が焼き物を始めたきっかけでもあるんですけれど…。
生まれがお寺なんです。京都の大学で仏教を学んで、卒業後も京都で仏教関連の仕事をしていました。いろいろなアーティストやミュージシャン、作家や文筆家、そういう人たちを紹介するような仕事をしていたんですね。とても楽しくて…でもいつの時か、そういう人たちの鎧を僕が被っているみたいな感じがしてきて。僕自身は何もメッセージを発していないし、ただその人をみんなに紹介しているだけなのに、紹介することに満足して何かいきがった自分がいて。そういうことに疑問を持ち始めた。僕も何か表現できるんじゃないかなということを、薄々感じていた時に色々なことが重なって、珠洲の実家に帰ったんですね。

それがちょうど珠洲焼資料館が開館した年でした。珠洲焼は室町後期から永年途絶えたままでしたが、昭和30年代以降に次々と古陶が発掘されて調査や研究が進んで。今から40余年前の1979年に、ようやく現代の珠洲焼として再興されたんですね。それから10年経った1989年に、資料館が開館。僕はそこへふらっと行って、すごい衝撃を受けたんです。

中世の珠洲焼の黒いのが、一同に並んでいるわけですよ。しかも、立ち姿がすごく凛としていて、何か潔く感じたんですね。それを見た時に、今まで僕はいろいろな知識とか、人脈とか経験とかを纏って、いきがって生きてきたなと。自分が何者か、いっぺん脱いじゃえばいいんだと。この焼物みたいに裸で凛と立ってみたいなと思ったんです。

それがきっかけで焼物の道に入りました。これを生業としようと思ったわけではなくて、そんな一大決心もなかったですし。ただ土を触っている時に、すごく心が穏やかになったんです。土を触っている自分を、その後ろ側から見つめるもう一人の自分も発見することができて、とても自分を冷静に見ることができたんですね。それで、もうどっぷり浸かってしまって。本当はお寺を継ぐ立場だったんですけれど、お寺を逃げ出して、この世界に。

独学で始めました。僕には珠洲焼の先輩が二人いまして、窯焚きを手伝わせてもらったり、工房へお邪魔して、轆轤を挽いている姿を遠くからちょっと覗かせてもらったり…。展覧会を開けばそこまで行って、展覧会ってこういうものなんだとか、いろいろなことを学ばせていただきました。他の産地にも知り合いができたり。そういうことの積み重ねでやってきました。

初めの1年ぐらいはね、どんどん自分がひらかれていく気持ちが嬉しくて作っていました。売りもせず、ただ土を触っていたという感じです。でも、それで何か自分でも表現できるんだと一つ思いましたね。
最初は、手びねりで大きなものばかり作っていました。手びねりはとても気持ちが静まるんですよ。ゆっくりゆっくり自分のペースで積み上げていく。普段、人間っていろいろな人との関わりとか、さまざまな問題を抱えていて、心が揺れたり、ザワつくことがありますよね。でも土を触っていると、それがスッと消えて心が穏やかに静まる。何かそのために僕は作っている感じがしますね。






ある時、見ず知らずのお客さまから「あなたの作品って仏像みたいね」と言われたんです。すごく嬉しかったです。「見ていると心が静まるわね」「静かな作品ね」と言われることもあります。
例えば音楽にしても、人の心を静かにさせる音楽もあるし、躍動させる音楽もある。時代によっては、人を戦争に駆り出す音楽もあって。焼物もそうだと思うんです。何か人間のドロドロっとしたものをえぐり出すような焼物もあったり、そういうものをスッとおさめていく焼物もあったり、いろいろだと思うんです。




僕の役割は、仏教を学んだせいかもしれないけれど、何か日頃のザワザワした気持ちが、スッとおさまるようなフォルムとか、そういうものにしたいと心がけています。自分がそうなりたいと思って作れば、それは見た人に伝わるのではないかな。

迷ったら資料館に行って、何時間でも見つめているということが年に何回かあります。珠洲で先人が作ったものというのはとても惹かれるし、僕の原点ですね。開館した年に行って、すごく衝撃というか感銘を受けたと言いましたけれど、それを今も毎回確かめに行くという感じです。

中世の作品では、壺と甕が大好きです。特に端正な壺で、好きな作品がありますね。珠洲焼は黒いって言われるけれど、実際、中世の作品を見ると、結構グレーなんです。たまに黒い物もあって、それも好きですね。中にはこれを作った陶工と会ってみたいなという物もあります。とても丁寧に作られているし、その焼物の裏に何か哲学が見えるみたいな、その人の生きざまが見えるみたいな作品。そういうのを見ると嬉しくなりますね。


花の器


自分で心がけているのは、花を拒否しないような器であること。例えばフォルムがきっちり完成していても、口元がちょっとだらしなかったり、逆に主張しすぎたりすると、お花を受け付けないんですね。だから、最後に僕は口元に少し隙を残すというか、そこにお花を呼び込む気持ちを残しますね。

作り手にとって口元ってとても大事なんですね。人間にすると、顔とかの表情なので、本当は自己主張したいんですよ。でも、そういう器に限って、もうお花は要らないってなってしまう。だから僕は下からスッと伸びてきた最後の口元は、隙としか言いようがないのですが、あまり完成させない。お花が入って完成だと僕は思っているので。




ただ、お花を生ける方が、たくさん生けて口元を隠してしまうことがあります。それを見ると、すごく悲しい。作家にとって口元は、やはり見せたいものです。作家は隙を見せると言いながらも、口元にかなり神経を使っています。フォルムはすぐにできても、口元で1時間も2時間も迷うことはあります。ということをやはり知ってほしいですね。

「お花は口元の横から出るんじゃない。中心から上がるんだ」と、花道家の上野雄次さんがコラボをした時におっしゃっていました。立ち上がりを邪魔しない口元というのでしょうか。
自分で作っている時には、口元の先に花をイメージしています。でも、それが使い手に渡った時に、それを何に使ってもらっても僕は構いませんし、そういう意味では用途は決めていないです。


酒と食の器


お酒は大好きで、晩酌も毎日です。夕方、食材を買いに行くと、この辺りはワンパック300~400円で晩酌用の新鮮なお刺身があるんですよ。お酒を飲まないと失礼です、食材に(笑)。おいしく食べないとね。地元でお酒を買う時は、櫻田酒造さんの「初桜」をよく買います。

焼締って、皆さん口をつけるまで抵抗あるんですよね。ザラッとしているんじゃないかとか。でも、一度口をつけてみると、口元にすごく優しいんですよ。ガラスの冷たさもないし、釉薬物の硬質感もないし。何かやわらかく口元に来る感じで、僕は焼締のぐい呑は大好きです。




燗酒と冷や酒と冷酒では、使うぐい呑はやはり違うと思いますね。僕はお燗したお酒を飲む時は、口元が開いてなくて、少しホッコリしたようなので飲むのが好きです。冷酒はちょっと香りを楽しんだりするでしょう。冷酒とか冷えたお酒には、少し口元が広がって、口が薄造りのかな。そういうので飲むのが僕は好きですね。

両方作ります。僕の器は大きいと言われますね、酒飲みなので。僕は手も大きいし、グイッと行きたい。ぐい呑はやっぱりグイッと行くものでしょう(笑)。だから、大きめに作りますね。

ぐい呑は蹴轆轤で作ります。蹴轆轤はちょっとアンバランスなリズムができるので、ゆらゆらな感じが自然にできるんですね。注文品の大量なものは電動轆轤で作りますけれど。




食器は最近よくお料理屋さんから注文があるので、和洋関わらず作ります。そこでちゃんとサイズを指定されて、こういう雰囲気のをと頼まれて。作ってみると、すごく勉強になるんですね。料理を盛った写真とか実物を見るとやっぱりさすがだなと。この料理にはこの寸法でこの深さでって。料理人さんの求める器というのはこういうものなんだなと思うと、最近は食器作りがとても楽しくなっています。数を挽く場合は、電動轆轤で作ります。10枚注文されても、20枚作らないとなかなか完成品が取れないものですから、数を挽くんです。

手びねりで作るのは大物、中物になります。手びねりと電動轆轤とでは、やはり味が違うんですね。手びねりの方がやっていて楽しいですし、時間があればとことん手びねりでやります。


後世につなぐ




僕は何で作っているかというと、一つは生業もありますけれど、自分の気持ちを静かにしたいということが一番なのです。工房も普段は誰も訪ねて来ませんし、朝から晩まで一人で淡々と何かやっているのが好きですね。草むしりも大好きで、家の庭をやったり。心が豊かになります。静まるんですよ。

僕は今でも仏教徒だと思っています。ただ、僧衣を着てお経をあげてお布施を貰わないというだけで。何か展覧会で買っていただくというのは、お布施だと思ったりもします。これでもっと勉強、さらに勉強しようと、そんな気持ちになることはあります。

僕は珠洲焼が美術品でも伝統工芸品でもないと思っていて。元々は雑器ですから、その中で僕が何か表現できて伝えられるものがあればいいなと思っています。

これからの目標と言えば、この窯を継いでくれる人を探しています。一時、若い子がここでやっていたんですけれども…。僕が引退する時には、ちゃんとここで次の人が珠洲焼をやっているというふうにしたいです。次の仕事はそれかなと思います。

Movies

Introduction movie 篠原敬

year:2022 time:13.29min produced by filament movie