笹川健一

Interview

Kenichi Sasakawa

Nov, 2018

Interview

ガラスを素材に


ガラスを始めたのは美大に入ってからです。幼少期から絵や図工は好きで、でも絵描きになるのは現実的ではないと思って、進学時にプロダクトデザインを目指しました。中学校から高校もずっとバレーボールをやっていて、部活を引退してから予備校に通い、美大には一浪して入学しました。その浪人時代、粘土でつくるという授業に、僕は意外にもはまって。デッサンで現実にはない机上のものを描くより、実際に形を粘土でつくっていく方が楽しくなったんです。それでプロダクトと工芸学科を併願して、工芸学科に入りました。陶、ガラス、金属の中から、ガラス専攻を選んだのは直感です。とにかく手で何か形をつくりたい、ということだけでしたね。焼き物は僕にはダイレクト過ぎて、うまくいかないという気がしましたし、当時は土っぽいものはあまり好きでなかったような…。きれいな物が好きで、ガラスはキラキラ光ったり、きれいなんだろうなという思い込みというか、単純なインスピレーションだけで選びました。僕はニュータウン育ちで、かなり整備された町並みだったんですね。世の中のことで整っていないものとか、雑多なものをあまり目にしたことなく育ったせいか、そういうものが苦手なところがあって。そういうことも影響していると思います。



なぜか昔から家にある食器があまり好きになれませんでした(笑)。というのも、自分で選んだものではなかったので。いわゆる大量生産の焼き物とか、ガラスもプレスでつくった型物で。プロダクトデザインに興味を持ってから、よく雑誌とかでモダンデザインの物を見ていて、格好いい食器に憧れていました。自分の手で物をつくりたいと思って工芸学科に入りましたけれど、それまでガラスには全く接点がなくて、大学で初めて溶けたガラスを見ました。建材の板ガラスなども使って、課題の中でいろいろな技法を学びながら作品をつくるんですけれど、そういうことを見るのもやるのも初めて。ガラスを材料・素材として認識した初めての経験でした。その頃のことはあまり細かくは覚えてないんですけれど、不思議な感覚だったことは覚えています。土をこねたりは子ども時代に自然と遊びの中でやってたりしますけれど、ガラスは経験しないですからね。


器の形をしたオブジェ


大学では、学年が上がるうちに美術表現をやるようになっていました。課題内容や周りがそういう雰囲気だった、というのもあります。オブジェをつくったり、学部の卒業制作ではインスタレーションを制作したり。器づくりはほんの数回程度で。でも、どこかでデザインということも頭にあって、課題を利用して器をつくったり、昼休みなどの隙間時間につくったりとかはしていました。大学院を出るときの制作もインスタレーションで、それを銀座のギャラリーに持って行って個展をしました。




その後、ガラスに触れられる環境を求めて、金沢卯辰山工芸工房に入りました。インスタレーションでは常にガラスという材料がまず最初にあって、そこがコンセプトとか表現の原点になっていたんですね。当時やっていたことを説明するのは難しいんですけれど、ガラスをどう見せるかというようなことです。ところが、卯辰山では同じ事をしても、うまく伝わらなかった。周りとの共通言語が見つからなかったんです。当時、大学では伝統的なもの、既成の工芸観は否定されたり避けられる傾向があって、それが自分の世代の普通の感覚だと思っていました。でも、卯辰山ではとても真剣に抹茶碗をつくっている同世代がいて、そこがまずカルチャーショックというか、齟齬というか。作品でコミュニケーションが取れないという現象が起きてしまった。大学のカラーとかにもよるんでしょうけれど、僕は大学と大学院に合わせて6年もいたので、なおさらそれが強かったんです。僕も変わらなくちゃいけないというか、そういう周りの人たちも含めて、より多くの人たちにも伝わる表現方法は何だろうかと考えるようになって。それがだんだん工芸的になっていく面があって、器の形をしたオブジェをつくり始めたんですね。



「うつわのこと」左:2011 / 右:2014 / 写真:笹川健一


金沢市内の美術館や歴史博物館、私設美術館にも行って、いろいろな陶芸のコレクションとか、発掘された土器とかを見ていくうちに、自分の作品としてちょっとひびが入った器の形をしたオブジェが生まれたんです。インスタレーションをつくっていた頃から、吹きガラスでどれだけ大きい物をつくっても、口のある器状の形になることが気になっていて。そのことをポジティブに捉えてコンセプトとしていこうと思ったんです。形状は器でも概念や表現の顕れであって、機能用途の器ではなくオブジェですね。精神性や造形を追求しつつ…美術館や博物館で見た物、破片を継ぎ合わせて復元された土器を格好いいと思うこの現象はなんだろうかと。未完、不完全でただの修復された物ですけれど、そのひび割れや石膏で補完された佇まいを、単純に造形として眺めている自分の感覚を掘り下げていったという感じです。2009年頃までは、そういうものをつくっていました。いま思うと、その頃は古い土器や焼き物ばかり見ていましたね。金沢にはそういうものが多かったので。


見る器から使う器へ


大学2年生のときに、食器の調査というレポート課題があって、いろいろなお店を見て回ったんです。その中で、これはきれいだなと思って買ったのが、すごく薄い造りのガラスのタンブラー。大量生産品なのに半手吹きのような感じで、口は火切りして焼いてあって、これはおそらく機械ではないなという物でした。すごく感じが良くて、スムーズな生地なんですけれど、底面はたぶんコンクリートかレンガに押し当てたようなテクスチャーで。いまは割れてしまって手元にないんですけれど、長いこと使っていました。薄いガラスがいいなと思ったのは、そのタンブラーと出会ってからで、つくるならこういう薄い物がつくりたいという思いは、それからずっとありますね。


もともとデザイン志望だったので、そういう器を見るのも好きだったし、作家さんのつくる器も面白いなと思って、東京のギャラリーにも行っていました。焼き物の加藤委さんとか、材料とギリギリのところで攻めている感じが格好いいなあと思ったり。実はガラスに注目して見た事って、そんなにないんです。卯辰山にいたときも、漆の人たちや、焼き物の人たちにくっついて、輪島に行ったり、信楽に行ったり。多摩美には木工がなかったので、漆の人たちとつきあうのは初めてで、ガラスのことは自分でわかるから、違うジャンルの人たちと遊ぶのは楽しかったですね。穴窯を焚いてるところに顔出したり、ちょっとつくらせてもらって焼いてもらったりとか。僕は天の邪鬼なところがあって、みんなと違う方を向いてみたり、あまりガラスに興味はなかったんですね(笑)。たまに古いガラスなどを観て、アイデアの参考になったりというのは時々はありますけれど、ガラスばかり見ているわけではなくて。卯辰山は金沢市の施設なのでいろいろなイベントがあって、展示販売もあるし、人からつくってと頼まれたりもします。それでオブジェではない、使える器も時々つくっていました。





焼き物の器に衝撃を受けて


2009年くらいに、雑誌か何かで陶芸家・岡晋吾さんの食器を見て、それからずっと気になっていたんです。その時は神奈川に住んでいたので、横浜での展示を見に行って。それまで僕は作家の器を見て、盛り付けたいという余白の空間感とか、感情を受けることってあまりなかったんですね。ところが岡さんの器を見た時に、それほど料理は得意ではないのに、ここに料理をのせたらすごく格好良くなりそう!っていう渇望感が沸いてきて。それで、なぜそう思うんだろうと思って、豆皿と21センチくらいの平皿を買ったんです。作家の食器を使ってみたいと思ったのは初めてでした。それまではギャラリーで器を見ても、造形的に格好いいとか、飾りたいという視覚的な捉え方しかしていなかったんですね。




写真:笹川健一


自分もこういうものをガラスでやりたい、ちゃんと器をつくりたい。そう思うようになったのは、そこからかなと思います。岡さんが僕の中ではとにかく衝撃的でした。それまで見てこなかったジャンルでしたし。岡さんの器は、それまで思っていた作家物とは違うというか、作家的じゃないというか。個性が前に出るのではなく、ちゃんと器というものに貼り付いているその人の表現があって、それがすごく新鮮で。造形もすごく良くて、縁の処理とか、裏側を見たときの高台の処理とか、肌触りや質感も含めて、すべてがしっくりと格好良かったんですね。それから個展に行ったり、工房にはお店もあるので訪ねたりして、少しずつ買い集めています。

岡さんの器に感じたように、僕も使い手の感覚を呼び覚ます器をガラスでつくりたい。とはいえ、その時はまだはっきりとしたビジュアルイメージがなかったんですね。それで器の実験を始めました。2008年に金沢卯辰山工芸工房を終えて、その後は富山のレンタル工房を借りていたんですけれど、多摩美の助手の話があったので神奈川に戻って。1年間はガラス作家の工房で手伝いをしたり、窯を借りたりしながら、オブジェと並行してやっていました。助手は2010年4月から2014年3月まで4年間務めました。


見込みを大事につくる


岡さんの器には、ベトナムや朝鮮の焼き物にインスピレーションを得た作品もあって、完全な写しではなくて岡さんの感覚になっていて。咀嚼して表現されていますよね。どの器も、見込みがすごくいいなと思います。

吹きガラスは、外側の形がそのまま内側の形にダイレクトに影響します。焼き物みたいに、内側を触って、乾いてから外側を削ってということはできないので。つくっているときも、横向きに成形するので、わざわざのぞき込まないと、内側は見えないんです。基本的には吹いて膨らませているときは外側を触るし、それを開いて口をつくるときには内側を触ったり、伸ばして切ってガラスの厚みを調整したりはするんですけれど、直接見込みをいじるというのはほとんどなくて。その分、余計に見込みを意識するようになりましたね。それまで自分がつくっていた物が、器の形をしているけれど器じゃないと感じていたのには、そういう意味もあって。見込みを意識するということが、それまでの僕にはなかったんですね。金沢にいたときに茶道に触れる機会があり、見込みの重要性は抹茶碗を触ったりしたときにも感じていましたし。手に持って見込みを見た時にどう思うか、というのを意識しています。そこに盛り付けたいと思うか、何か注ぎたいと思うか。立ちものは別ですけれど。お皿とかぐい呑みはそうですね。器はそこに盛ったり注いだりして完成するものとも言えるので、そこにつながる感覚をどう呼び起こせるか…。








自分らしい色と質感


見込みを意識し始めてから、ガラスの無色透明のきれいな感覚が物足りないというか、きれいになり過ぎと感じてしまうようになって。自分のやりたいことと生地がマッチしていないという思いが、わりと長いことありました。自分の窯を持つ以前は、先輩の工房や職場、レンタル工房でと、ずっと窯借りをしていたので、そういったところでは基本的にどこも材料として使えるのは無色透明なきれいなガラスなんです。でも、それでは視線が引っかからないというか、素通りしてしまう。僕が焼き物の人たちと遊んでいて思ったことですけれど、彼らは原料から自分たちで調合しますよね。自分の作風に合った生地をつくっている。それがそれまでに居たガラスの環境ではできなかったんです。原料屋さんから調合された原料を買って、それを溶かすときれいなガラスができて。窯借りしていると、使うガラスは共用のものなので、それを使わなくてはいけない。となると、自分だけの生地をつくるには、まず自分の窯を持つしかない。僕はあまり規模の大きい設備は無理だなと思っていたので、僕なりのやり方でできるものを考えて。それで、自分の設計した窯で、ガラスに着色したり、気泡を入れるようになりました。何か生地に奥行きであったり、抵抗感を与えたりしたいなと。生地に色が着いていると、口縁に色が溜まって、薄いガラスはその効果でシャキッと見えるので、そういうのは意識していますね。




ブルーグレーというか、ちょっと青っぽい色にしています。鉄とコバルト、銅、ニッケルの発色です。最初はもっと濃い色味だったんですけれど、最近はこういう色味です。多摩美にいたときに、二基の窯のうち一基は青いガラスが溶けていて、いまの着色ガラスはその流れですね。いざ始めたら評判もよかったので、自分の作風に合っていたんだと思います。




金沢に行く前は日本酒は飲めなかったんですけれど、金沢で盃をつくる機会があって、自分でつくった物を試しに使って飲み始めたら結構日本酒にはまって。酒蔵も多い上に、友だちも酒好きが多くて、よく集まって飲みましたね。料理するのも楽しかったし、格好よく盛り付けてみたりしましたね。使って楽しむという体感をしているから、つくるときにも想像が膨らんで。飲まなくてもつくれる人もいますけれど、僕の場合は、体験がわりと生きているかなと思います。香りの高いお酒が好みで、酒器は口縁に向かって開いている物をよく使いますけれど、それは僕の好きなタイプのお酒がその形に合っているからですね。いろいろな形状をつくっていて、脚のある酒盃も定番です。使う方の好みで選んでいただけたらいいなと思います。自分の器に対して、いろいろ思い入れはありますけれど、僕がいいと思っていることと、また別のことを感じられる方もいらっしゃるだろうし。なので、ダイレクトにハッキリと伝わらなくても、ボンヤリと感じていただけたらなという風に思っています。



Movies

movie 笹川健一

year:2019 time:2.14min produced by filament movie