「くぼみ」とはナニモノか
渡辺
今回の小島さんとの企画展でもつくっている「くぼみ」という器。以前は「砂いこみ」と呼んでいたものです。
元々〝くぼみのコピー〟というコンセプトでつくった器なので、やっぱり「くぼみ」の方がいいかなと思って名前を変えました。改めて自分でも認識しながら、使って下さる方にも、くぼみということを少し知ってもらえたら嬉しいなと思っています。
小島
つくり始めた当初も「くぼみ」と呼んでいたそうですね。
渡辺
そうなんです。最初は、子どもと一緒に海岸を散歩していた時に、子どもが棒で海の砂を突いていたら、すごくきれいなクレーターみたいなくぼみができて。「何てきれいなくぼみ!」と思ったのが始まりなんです。そのくぼみの空間が気持ちよくて、こういう器をつくれたらいいのになって…。もしかして、ここに泥を流し込んだら、このくぼみを確保できるかもしれないと思いついて。翌日、泥を用意して、海岸でくぼみをつくって、そこに泥を流し込んでみたところ、何か貝殻みたいな、自然物みたいな、何とも言えない謎のものができたんです。一応、器のような形になって。とてもいいけれど、このやり方でたくさんつくることは不可能。それをどうしたら再現できるかを考えたんです。
それで今は、珪石を砂粒状の粉にしたところにくぼみをつくって、ドロドロに溶かした粘土を流し込むというやり方でつくっています。
だから、本当は、石の粉でつくったくぼみの方が作品なんです。この器は、くぼみのコピー。くぼみの方は、器をつくり終わったら崩します。乾かして、また次のくぼみづくりに使っていくんですけれど、毎回、1つのくぼみを使って1つの器をつくります。
小島
だから、同じ形の器というのがないのですね。
渡辺
くぼみの器は、僕が形をつくるというより、くぼみをコピーした形だから、いい意味で僕の思い入れがないというか、空っぽの状態で存在しているもの。そこに何か、ご飯とかお酒とかが入って、ようやく器として成立するというくらいがいいなと思っていて。器は何かを入れるためのものなので、そこに自分の気持ちがいっぱい入ってしまっていると、もうすでに満タンみたいな感じがしてしまう。でも、たぶんつくり手の思いが強く出ている器の方が、人には伝わりやすいんですよね。だけど、器という意味でいうと、空っぽがよくて、くぼみの器はそれができているのかなって僕は思っています。
小島
私の中で、陶芸の作家さんがつくる器は、造形の主張が強いものが多いというイメージがあります。器とそこに入れられるものや液体の関係性については、どう捉えているのかなって感じる時が多々ありました。一方で、テイスティング専用の器の多くは、意匠のことは気にせず、お酒の味を捉えることに全振りしているものだったりしますね。酒器は、造形重視かテイスティング重視か、そのどちらかしかないのかと思うくらいになっているような気もします。
でも、渡辺さんの器は、材質、軽さ、薄さ、形状…そういう目線で見た時に、造形的にもテイスティング的にも適していて、器としての存在がどっちに属しているのだろうかと不思議に思いました。そして使っていくと、そのどっちでもないなとも思うんです。この形に至るまでの距離感とかバランス感覚とかを考えると、この人は迷いながら、苦しみながら、その距離の狭間で葛藤している人なのではないかなと。どっちかに振れば楽だし、属せるのに、でもこの人はそこを悩みながらやっている人なのかなって思って飲んでいくと、非常に納得して、自分も近しいことをやっているから、どんどん渡辺さんの器に近付いていきました。
渡辺さんの器は、いつも両方の存在なんですよね。テイスティングの面でもいいし、形としてもいいし、それが融合している。その中でも、物によって立ち位置が違っていて、色や形状、重さがいろいろあって、それぞれ微妙に距離がずれていて使い分けもできる。このどっちかに属していないのにどちらでもあるというのは、非常に面白いですね。そういうところはいいなと思って、どっちにでもなってくれるし、どっちでもないし。常に新しいものの感覚はありますね。
渡辺
大学生の時に、先生がよく掌(たなごころ)とか、両手を合わせた時にできるものという話をしてくれたんです。器が、空間の内側と外側を隔てるものだとしたら、別に手は器ではないけれど、両方の掌(てのひら)を合わせれば手が器の代わりになるし。水を飲んだり、顔を洗ったりする時に、両掌はいちばん人間が簡単にできる器かなと思って。ここに何か器の理想があるのかなって思っています。
それは具体的に水をすくうとか、物理的に何かに使えるというだけではなくて、人間は何か物を受ける時に、掌を合わせて、手を器のようにして物を受けるじゃないですか。道具が存在しなかった時代から、そういうふうにしていたと思います。今でも大事なものは、両掌を合わせて受けることが多いですよね。卵の殻はその中に大事なものが入っているし、果物の皮とかもそう。その内側と外側を隔てるものが何なのか、というのは面白いなと思うんです。
小島
渡辺さんはうつわをつくる時に、まずくぼみをつくりますよね。その段階では、くぼみはくぼみでしかないと思うんです。そこに内も外もないんじゃないかな。渡辺さんがくぼみを器として具現化した時に、はじめてくぼみに内と外が現れる。くぼみの形状は内側に現れているものだけど、泥(粘土)によって反転し、くぼみの内側の世界は器の外側に現れる。内側の空間だけだったくぼみに、内と外の概念が生まれて、ある意味で新しいものに変換されている。そこにやっぱり渡辺さんていう人の性質が、器の内側に溜まると思うんですね。その器は別に100%渡辺さんじゃないし、100%くぼみでもないし、その何か狭間の存在になっている気がして。私はそこが渡辺さんの器のすごく好きなところなんですよね。
渡辺
その部分をくみ取ってもらえているのは、すごく嬉しいです。
小島
そもそもくぼみは、何かを溜めるじゃないですか。溜まったということは、溜まったものを持って行く先ができますよね。溜めることは自分のためもあるけれど、誰かに伝えるという前提で溜めているのかなとも思う。だから、器には内と外の概念が必要だし、くぼみという形には何かいろいろな理由が存在している気がします。
そういう考え方をしていくと、自分のやっていることも同じようなことだなと。私は立体にはしていないけれど、水とか米とか微生物とか、そういう自然物を酒蔵にあるタンクの中に溜めている。それを自分の熱で変換して、誰かに伝えやすい形に変えて、お酒にしている。溜めて、誰かに伝えて、それでその人に何かをしてほしい、というのは、一緒だなって感じたんですよね。
いっぱい溜め込みすぎると、やはり滞って腐ってしまうし、でも、あんまり流しすぎても自分がない、みたいになってしまうし。いい塩梅の器って考えると、内に上手に溜めて、良い状態にして、外の世界に伝えられたら、それはすごく良い器ですよね。
渡辺
僕もそう思います。
小島
さっき渡辺さんのことを、結構悩んでいるかなと思ったというのは、自分にもそういうところがあるからなんです。酒は人が造らないと完成しません。そして原料は自然物だし、飲む人は不特定多数の人間です。バラバラに存在している自然や人という矛盾を一つにまとめて、僕らには同じところがあるねってしていくのが酒なんです。それを実現するには私は全ての物の距離の中間、狭間に存在しなきゃいけなくて、あの人はあれが好き、この人はこれが好き、それぞれの好きがあるから、そういう距離も測って、今年の米はこうなったから造りはこうしようとか、自然と人のまとめ役みたいなことをしています。だから私も私の造る酒もどこかひとつに属さないし、どこにもいられないし、常に流動的に間を取り持つ形にしている。そういう考えで酒を造っている人は、実はいなくて黙々と孤独に酒を造っている。そうしていたら、ここにいた、ここにあったと、渡辺さんの器に対して勝手に思っているんです。
渡辺
それはもうずっと感じています。ずっとテーマというか。やっぱり物をつくっていて、楽しいから物をつくっているとか、何か必要性があってつくっていると思うけれど、でも何かここまでして、物をつくる必要性が本当にあるのかなっていうのは、物づくりを始めた最初の段階ですごく思ったんですよね。でもやっぱりつくりたい、という気持ちもあって。
ちょっと話は長くなりますけれど…。僕は大学で焼き物を始めて、もう大学2年生ぐらいでそういう限界が来たんですよ。すごく早かった。楽しかったけれど、これをずっとつくり続けていって何になるのかなっていうか、自分は何をつくりたいのかって。美大では、みんなとにかくつくって、それをコンテナに捨てるみたいな、その繰り返しで。ゴミ捨て場にいっぱいあって、でも新たにつくっている。これは一体何をやっているのかなと。
そう思っていた20歳くらいの時に、友人とインドへ旅行に行ったんです。向こうはいまも普通に土器を使っていて、お茶屋さんの屋台では、お茶を飲み終わったら、土器をその場に捨てていて。みんな踏みつぶして粉々にしていくんですけれど、日本で言ったら紙コップの感覚で土器を使っていたんです。それにかなりの衝撃を受けて。だいたいみんな同じところで飲んで捨てるから、その周りだけ赤い地面になっていて、すごくきれいだなと思ったんです。そのもの自体が美しいとか、1個1個のフォルムがとかではなくて、何かその全体を引いて見た時に、きれいな循環みたいなものが見えて…。何かがそこで起きているという感じがするし、それが嫌ではないし、人間も意外ときれいだなと思って。こういう仕事を自分もしたいなと思ったんです。
それで、土器をつくっている村に行ってみたら、貧しい職人たちが何千個で何円みたいな感じで卸していて。でも彼らはすごくプライドを持って仕事をしていて、そういう仕事はいいなと思いました。とはいえ、それを自分が日本でそのままやるのは違うとも思って。ある意味、日本はその先にいろいろな新しい焼き方とか素材を見つけて、いろいろミックスして今のこういう焼き物のシーンが出来ているとして、そこで今の自分がどういうふうに物をつくっていけるのかなっていうのは、ずっと悩んでいたというか、考え続けていました。
そういう中で、子どもが砂浜につくったくぼみを見つけたんです。その時に、今まで考えてきた自分の器観みたいなものに、ちょっと腑に落ちた部分があって。
いまだに僕は、自分のこの器が、何か物としての価値があるかとかいうのはよくわからないんですけれど。でも、これは何か好きだし、嫌いではないと言った方がいいかもしれない。あっても嫌ではない感じが、自分の中ではかなり新しい感じ方だったというか、嬉しいことだったんですね。
「イトナミ」の織り成す景色
渡辺
何年か前に、急に酒蔵を訪ねたことがありましたね(笑)
小島
はい。突然現れました(笑)
渡辺
その時に突然行ったにもかかわらず、酒蔵の中までよく見せてくれて。お酒造りの現場は、その時に初めて見たんです。タンクの中がブワーッと盛り上がっている時で、何かが生まれるところから死ぬところまでというのをすごく感じたんです。
小島
酵母の最盛期の高泡(たかあわ)から沈静化していく過程ですね。
渡辺
何か宇宙の成り立ちを見ているような…。ちっちゃいミニチュアの世界ですけれど、まさに同じことをずっとずっと繰り返している。生き物だけではなくて、物ができていく成り立ちというか。人がもちろん手を加えて造るんですけれど、でもある程度離れたところから見ているという部分もあって。そこがすごく面白いなと思って。
小島
やはり距離はすごく大事で。完全に放っていたら、僕らから遠い存在になってしまうし、近すぎたら予想通りになってしまう。酒造りの間、私は醪(もrみ)の表情やいろんな移り変わりを見て促しているんです。酵母の泡の形とか大きさとか、麹のカビの生え方とか。人が意図的に培養してはいるんですけれど、タンクの中で微生物が増えようとする様子はやっぱり純粋な姿なんですよ。そういうのをずっと見続けて、その微妙な変化とかで、彼らが何を行っているかを考えているんです。渡辺さんのくぼみの器も、私は何かそういう純粋なものを見る目で見えているのかもしれないです。酵母の泡の形とか、その曲線とかに照らし合わせて共通点を感じているかもしれないですね。お酒造りと窯焚き、結構似ているのではないかなと思ったりします。
渡辺
「天穏」というお酒は、すんなりしているというか、浸透圧が近いというか。もっと簡単に言うと、塩水じゃないけれど、何かすごく体に近しいなって感じがします。飲んでいて、その感じが気持ちいいし、美味しいなと思うし。確かにこの器と同じような感じがします。感覚としてきっと同じような液体というか、飲み物というか。もっとありがたい感じがしますし、感動もしますけれど。すごく体にすんなり入っていく、スッと入ってくる感じが印象的です。
僕の場合は、やっぱり窯で焼く最中がすごくきれいというか、エネルギーが凝縮するんです。土が陶に変わる、大きな瞬間があって、そのためには莫大なエネルギーが必要で、それが行われているのが窯焚きで。窯の中の出来事に、圧倒的に感動するんです。だけど、焼き物というのは焼かれたものであって、言ってみたら焼き物のピークの残り。嫌な意味ではなくて、そこを通過して残ったものということ。地球が元々火山活動によってできたとか、そういう話で、今こうやって落ち着いて冷めている状態、みたいな感じです。
お酒造りを見た時も、同じようなことが行われているのかなと思いました。それでどこを大事にするのか、お酒だったらたとえば味とか数値を大事にして取りかかるのか。そうではないものか。どこが大事なのかによって、できてきたものが人に与える影響もずいぶん違くなると思っていて。そこの部分は小島さんと共通の感覚を僕は勝手に持っています。
小島
現代の酒造りは、数値で分析して、今は糖分が何%でアルコールが何%でと、誰から見ても数値でわかるようにして酒造りをしています。酒造業界はこの20~30年で極端にそうなって、自分も最初はそこから入ったんです。でも、途中から変えました。数値に縛られすぎると、あまりにも人間都合の酒になってしまって、飲んでももう知っているよみたいな、飲まなくても味がわかるよみたいな、それでは何の感動も生まれない。でも、酒を造っているからには、自分の想像だにしない新しい景色を見せる酒を造ってみたい。そうなってくると、距離が必要になる。どちらでもありながらどちらでもない絶妙な距離の狭間の世界が必要になってくる。その狭間が多く存在していればいるほど、誰にとっても共通することが多くなるから感動するんです。美しいその酒を見てみたい。そんなことをずっと思いながら酒造りをしています。
何年か前から、水酛(みずもと)という昔の製法を始めたんです。水を乳酸発酵させる、暴れ馬をコントロールするような酒造法です。水の中に米を入れて、放っておく。何でも来いみたいな状況をつくるんですけれど、本当に何でも来るんです。カビも来るし、野生酵母も来る。そういうのを毎日見たり、置いておくと、日々移ろいがあって、徐々に乳酸発酵していって、やがてめちゃくちゃ酸っぱい水になるんです。そうなると、他の菌が入っても増えられなくなって、最終的には安定するんです。安定まで結構な紆余曲折を経ていて、その過程が水の成分として記憶されている。それを酛にして酒を造るというやり方です。自分の中では、自然界の結構奥の方まで踏み込んで酒を造るというものです。
渡辺
それは飲んでみて、すごく感じます。スーッと入ってくるだけではない、すごく複雑さがあって。
小島
フワッてくる野性味みたいな、酸味みたいな。手前でスーって入る部分は私のちょっと手綱があって。後半のちょっとキュッとくる、酸の鋭角さとか、そういうのはそっち系の野生のニュアンスがあります。
渡辺
すごい!
小島さんのお酒はやっぱり繊細。繊細さをすごく感じるんだけれど、その繊細さがまた嫌味がないというか、感じがすごくいいなと思います。
小島
今飲んでもらっているのは無窮天穏の「縁起」。縁起を英語で言うとエロスらしいですね。縁起もエロスも、異なるものを結びつける言葉ですね。
渡辺
何かが生まれる、みたいなことですね。
小島
この縁起で少し未知の片鱗が見えたので、次の酒造りからは、もっといろいろなものを引っ張ってこられるなって思っています。
渡辺
それは楽しみです。今回の企画展に向けて、僕は大きなくぼみを、地面に穴を掘ってつくったんです。小島さんがつくっているお酒は、いろいろなお米があって、微生物がいて、人がそこに介在して、いろんな力が働いてできている。大事なお酒という液体を、受ける器として、たとえば、この地面に大きな水溜まりみたいなものがあって、そこがお酒で満たされた泉みたいなものだったら、すごくきれいなんじゃないかなと思って。それで、地面に大きな穴を掘って、大きなくぼみの器をつくっています。「天穏」というお酒は、とても豊かなものだと思うので、それを受けるためだけに存在しているような、豊かさの象徴として…。その泉の下から、お酒が湧いているみたいなことを、そのままイメージできる器だといいなと思います。
いつも窯で焼きものを重ねて焼く時に、くっつかないように籾殻(もみがら)を入れるんですけれど、今回は籾殻を満たした状態で焼いてみたいなと思っていて。何かそこに模様が付くと思うんですけれど、焼き上がったくぼみにお米のお酒が入るから、その感じもきれいなんじゃないかな。
それと、稲藁を使って、大きなくぼみの器の台座をつくっています。家の隣が神社で、毎年秋になると地域のお祭りがあって、みんなで稲藁で注連縄をつくるんですね。お米を大事にしている人たちの習慣なのかなと思っていて、お酒もお米からできている、稲からできているから、何かそこに稲の要素が入るとよりいいのかなと。
小島
とてもいいですね。どういう景色が湧き上がるのか、今から楽しみです。
私も美味しいお酒を持っていきます!
渡辺隆之 × 小島達也
てのひらのオアシス展
2023.6.30㊎・7.1㊏・7.2㊐ 12:00 - 18:00
https://cotomosi.com/cotomosinokai_018.html