対談

酒と悠久

@ さいめ / 牛込神楽坂

2019.10.16 update

「身を清めて落ち着き、ゆったりとした気持ちで長く続くさま」。これは"悠"という字の意味です。こんなふうに悠久な心地になってたのしめるお酒と言えば…。板倉酒造杜氏・小島達也さんの醸す「天穏(てんおん)」が思い浮かびます。そして、その酒の世界観を、繊細に豊かに受け取り、自身の営む飲食店で提供しているのが嶋田寛元さんです。小島さんと嶋田さんは出会ってすぐに親しくなり、今では同士と称すほど。酒を想う真っ直ぐな気持ちは、深く強く結ばれているようです。フィラメントが天穏と出会ったのも、実は嶋田さんの店「さいめ」でした。嶋田さんには酒の声が聴こえている。とその時に思い、今回の対談をお願いしました。そして酒造りのオフシーズン、さいめに小島さんがやって来て、二人の素直な語り合いが始まりました。

写真:小島達也

小島達也(こじまたつや)

杜氏
板倉酒造

写真:嶋田寛元

嶋田寛元(しまだひろゆき)

料理人
さいめ店主

出会い


小島
嶋田君と出会ったのは、私が杜氏になってからなので3~4年前ですね。杜氏が私に代わったことを取引先にもあえて伝えず、酒の中身勝負でやっていこうと始めて、最初の造りがH27BYでした。その酒を嶋田君が飲んでくれていて、次の酒造りの時に、島根の酒蔵まで訪ねて来てくれたんです。


嶋田
これまでさまざまな酒を飲んできたんですけれど、ある時を境に、自分が美味しいと思う日本酒に、なかなか出会えなくなっていたんです。小島さんの造った「天穏」を飲んだ時は、あーやっと来た!これだ!と思いましたね。本当に嬉しかったです。


小島
当時は、自分の理解者はまだあまりいなくて。でも、嶋田君は初めて会って話したというのに、私の考えていることをとてもわかってくれていて。自分の思っている酒造りについて、その酒を飲んだだけで、その通りに理解してくれている。この人はいったいどういう人だろうかと、私も嶋田君に興味が湧いたんですね。初めて会ったその日に、飲みに誘いました(笑)。




嶋田
僕が思う美味しいの基準というのが、伝えるにはわかりにくすぎて難しいんです。今の世の中の美味しいの基準と同じではないので。でも、そこが小島さんの造る酒とつながるんですね。


小島
今の日本酒は味とか香りとか嗜好的な視点で語り評価するもの。それが日本酒業界の常識です。日本酒をなぜ造るのか、なぜ飲むのか、という本質的な視点から語る人はほとんどいないんです。でも、そこを自分は酒造りのテーマに、ずっとやっていこうと思っていて。味や香りではなくて、その精神性というか、お酒って本来こういうものだよねというところを伝えたいし、理解してほしいと思っているんです。杜氏としての酒造りのスタンスはそこにあります。


嶋田
味や香りではなく、と小島さんは言うけれど、誤解のないように言うと、小島さんにとって味や香りは当たり前であるものなんですよね。そもそも味や香りをできる人が、その上で言っていることになります。味や香りを舌先とか鼻先だけで捉えていないんですね。なので、ただ精神性だけを見て酒造りをしているような人ではないです。

今の市場に、コンセプトのない酒なんてゼロですよね。みんなそれぞれにコンセプトがあって、それでいいんだけれど、でも、それって売ることが目的になってしまっていませんか。小島さんの言っている、そもそも論=なぜ酒を造り酒を飲むか、というのはそこが違っていて。酒に対しての純度が高いんです。小島さんにしても僕にしても、いろいろ考えて、実践していることには、自然観や歴史観が共通しているんだと思います。大事な目的がそっちにあって、そこから発想しているので、売ることは後付けになるというか。


悠久のまなざし




小島
歴史の話になるんですけれど、1万年以上前から人間は酒を造っていて、日本では少なくとも今から6000年前の米が発見されていて、今の日本酒と同じものではないけれども、ずっと現代まで酒は造られてきています。その途方もない歴史で見たら、今の嗜好的な美味しい酒はここ40~50年くらいに生まれたものです。でも、なぜかそれ以前の9950年以上もの間の酒を、誰も気にしていません。私はその9950年だけを見ているのではないし、この50年だけを見ているのでもなくて、今までの1万年以上もの間、脈々と伝わってきた酒造りの流れを見ていて、その歴史や精神性をいまの時代で表現したいと思っているんです。

その1万年というのは何か。ちょっとわかりにくく聞こえるかもしれませんけれど、人類とか日本とか日本人とか、つまり自然や人との接点や循環にお酒が密接に関わっていて、日本人と自然の1万年以上に渡る大いなる営みの歴史を表現したものが日本酒です。日本人には、そこにあるものを洗練させるという美徳があって、日本酒とは米を洗練させたものです。米を酒に、人の手で洗練させるということは清めることであり、神や自然に対する感謝の意を表現したということです。つまり、味や香りが造る目的ではない。そのことにある時気付いて、味や香りではなく、清らかな酒を造ろうと思うようになったんです。

そのためには、今の蔵が持っている環境を大事にするということになります。蔵の設備や構造はじめ、蔵に着いている酵母を使った生酛造りや、ゆっくり発酵させてきれいに造る吟醸造り…。どれもこれまで酒造りに関わってきた先人たちが伝え残してくれた大切なものです。そこを意識して、ちゃんと人が手を掛けて造る。日本酒は人が造って神に還すものだから、その方が自然じゃないですか。今は、自然というとできるだけ手を掛けないようになど、人と自然を別のものだと捉える人が多いけれど、それは自然ではないように思えます。人が関与しないように造ると、全然やさしくない酒になります。そういうのはずっと嫌だと思っていて、日本酒は荒いことではなくて、人の祈りがこもった清らかな姿が自然だと思います。

清らかな酒は、飲むほどに胸元に余韻がたまって、それが幸福感につながります。一方、味や香り、綺麗さだけを意識して造られた酒は、美味しいだけで幸福にはならない。欲は満たしてくれますけれど。私は飲む人に感動や幸せをもたらす酒を造りたいです。




嶋田
今があるからその理由を探すという遡り方は僕もそうですね。わからないことを知ろうとすると、どんどん歴史を遡る必要があって。最初は江戸料理が面白いと思っていたけれど、知るうちに少し僕には違和感が出てきて、さらに遡るうちに、野菜を焼く、肉を焼く、魚を焼く…”焼く”だけってとてもいいなぁと。僕は埼玉の出身で、いろいろ調べていく中で、郷土の吊し窯というのを知って。タンドールに似ていて、円筒状の内側にレンガを積み上げた造りで、窯の底で炭を燃やします。その窯を自分でデザインして、そこに食材を吊して焼く。というのがこの店の始まりで、開店してから4年半になるんですけれど、最近は吊し窯だけでなく、土器を煮炊きの道具に使うようになってきました。そうすると土器とガス火のバランスが気になり出したり、オフの時間に炭焼きをしたりしていることもあって、自分の興味はどんどん遡っていくんです。今は1万3千年前、縄文の歴史ですね。




群れの酒


嶋田
小島さんの酒をはじめ、この店で扱っているものは、食材、器、空間すべて、自分で考えて選んできたものばかりです。有機野菜だからというより、なぜその野菜なのか理解して作っている農家さんの野菜や土器作家・熊谷幸治さんの土器、山本亮平さんや渡辺隆之さんの焼き物、太田修嗣さんの漆器…。自然に感謝してものを作っているプロは、よく調べて実践していますよね。自分の仕事に誇りをもてるくらい、とことん好きでやっている人たちですね。

そうやって生み出されたものたちだから、すべて合わさった時に意味があるというか、一つのきれいなシーンになるんじゃないかと思うんです。例えば、稲が1本生えていて、その脇にヨモギも生えていて、その組み合わせがいいなぁとか。そういう風景を感じるシーンは、実は人間が意図的に植えたのが始まりだったりするわけで。この店も、大切に思う物事を組み合わせて、それを景色として伝えたいんです。そこに囲炉裏端みたいに人が集まって、楽しく語り合えるようなのがいいなと思っています。そのシーンを構成するものがきれいだったり、面白かったり。会話が弾んで、このお酒の酒蔵に行ってみたいねとか、この器の作家さんに会いたい、この農家さんに会いたいとか。そういう時のお客さんの幸せそうな笑顔は本当に素晴らしいですよ。お客さんとつくり手が自然につながったり、理解し合ったり、というようにしていくのが僕の仕事です。僕が表現するのではなく、できるだけ僕がいない状態になるような伝え方をしていくのは責任と思っています。

この店の場合はそういう感じですけれど、小島さんの酒というのは、どの食べ物とも合うし、どういう店でも、どういうシーンでも合うんですね。タイプが見えないタイプ、フラットというか、ニュートラルというか。ありそうでないど真ん中の酒ですから。香りがあって冷たくしても美味しいし、燗酒にも向いてるし。タイプにおさまらない、タイプがいろいろあるとも言えますね。




小島
酒とは何か、ということを常に見ながら造っていると、酒の本質に近いものができるんです。本来の酒は、どんな食べ物や飲み物とも合うし、どう飲んでもいい。つまり、味が美味しいんじゃなくて、酒が人に近いから美味しいと感じる。今の酒というのは、個人の嗜好に合わせた酒ですよね。天穏は、集団の酒なんです。誰でも飲めて、飲み飽きしない。やさしさというか、一人ではない安心感みたいなものを感じてもらえるんじゃないでしょうか。そもそも酒とは、そういう自分も他人もそれぞれが仔(個)なんだけれど、自分も他人も自然もみんな同じものなんだよ、群れなんだよと確認しあうものだったのではないかと考えています。


嶋田
酒が人に近い。酒が人になる。哲学ですよね。僕が勝手にわかりやすく言うと…(笑)。酒を飲む時に、まず口と鼻で味や香りを察知しますけれど、本当は人間は口の中ではなくて、食道を通った辺りからの浸透性で、美味しいか美味しくないか、清らかか清らかでないか、ということを感じるんだと思います。小島さんがよく言っているように、清らかな酒は自分の体にスーッと入っていくし、そして体の内側とか胸元からフワッと気持ちよく広がる。そういう良い酒は人に近いし、酒が人と一体化していく表れです。飲めば飲むほど、だんだんと酒が水のように思えてきて、たくさん飲んでしまうのも天穏。そして翌日に二日酔いとか残ったりしないですからね。気分が晴れて、元気が復活してて、それは酒が人になったということだろうと。


小島
私にとって根本的なことですけれど、米・水・農家・酒蔵があって、150年続く天穏という銘柄がある。農家は、その田んぼをずっと守ってきて、出雲という民俗は2千何百年も前からある。そこに対して、自分の色をつけていく必要なんて全くないですよ。私はそれらに対して敬意を払って、祈りを捧げていく。そういうものがやがて酒となって生まれてくると思っていますから。単純に言うと、出雲が酒になる、出雲に住んでいる人が酒になる、それが地酒ですよね。だから、私個人の美味しいではなく、みんなの美味しい酒になるわけで、美味しいの種類が違うんだと思います。私はみんなの代弁者でしかなくて。

資本主義の現代は個人の生き方が語られますけれど、本当は私たちは動物も人間も個人ではなくて、集団なのですよね。いろんな時代があったけれど、基本的には助け合ってみんなで生きてきました。そういう群れというのが、田んぼのお米になり、酒になり。そうして生まれた酒を介して、私たちは集団であり、群れの一員であるということを振り返って伝えたいという想いもあります。




嶋田
人間になろう、という小島さんのメッセージが酒に込められてるなぁと感じますね。僕が好きなワインの生産者にパトリック・デプラという人がいるんですけれど、会いに行ってみたら森の中に住んでいて。自分のぶどう畑を1000年後には森にすると言って、いろんなものを植えていて。造るワインもどんどんきれいになっていて、自分のワイン造りについて「森の水を造りたい」と言うんですね。その彼に天穏の「天頂てっぺん」という酒を持って行ったんですけれど、飲んでみて「これはワインだ」と言って驚いているんです。この酒は自分と同じタイプの人間が造っていると。ワインと日本酒だから酒の種類は違うけれど、これは酒の形が一緒だと。きっとデプラも小島さんも、ものをつくる時に見ている景色とか、大切にしているものが似ているんだと思います。そもそも人間はちっぽけなもので、自然の中に人間がある。だからこそこういう造り方をするんだと。


小島
嶋田君に飲ませてもらったデプラのワインには、私も自分の酒と同じものを感じました。ワインの世界にもこういう造り手がいるというのは、嬉しかったですね。日本酒は原料が米と水で、それも出雲の米と出雲の水がありますから、私が選ぶ物はほとんどないんですね。私がいちばんのよりどころにしているのは、その米と水と、今まで酒を造ってきた人たちがつないでくれた酒造りの技術です。その技術は、長い祈りの歴史の賜物だから。そこを大切にやっていれば、清らかな酒になるだろうと。そうなるには、環境に逆らわないとか、自分の我を出さないとかですね。手は掛けて造るけれど、なるべく酒主導で、酒がやっていることにあんまり文句を言わない。単純に言うと、敬って、祈るだけですね。いい酒になってくれと。


囲炉裏端


小島
さいめに来る度に思うのは、この場所はちょっとおかしいです(笑)。普通はというか、基本的にというか、飲食店に来たら料理とお酒や味や見えるものばかり見ますよね。ところがさいめに来ると、非常に時間とか空間とかを意識して感じるんです。次元がここは一つ違っていて、嶋田君はそこが見えてる人なのかなというのは、いちばん思うところですね。

今の天穏は、結局どういう酒かと言えば、飲むと時間と空間が満たされる酒なんです。おそらく、ここにあるものをつなぐ役目があるんですよ。人に対してすんなり入って、しかも余韻が長く続くように造っているので、杯をすすめる毎に体が常に余韻に影響されているように感じる。舌で味わって一瞬で終わりではなくて、ずっと体に何かを与えてくれる。そうなってくると、自分のいる空間と時間がすべてつながっていくんですね。普通は料理と酒で美味しさだけが満たされるものだけれど、ここはそうじゃない。時間も空間も満たされます。


嶋田
嬉しいですね。それが僕が思っている1万3000年なのかな。みんなが集まっている囲炉裏の世界観。それぞれに得意なものを持ち寄って語り合うというか。人間のコミュニティができたのは縄文時代だと思うんですけれど、コミュニティをつくるというのが飲食店であるべきと思っているんです。そのために当たり前にあってほしいものを僕は考えて選んでいて、そこが一貫しているだけです。それに僕が嬉しいのは、小島さんがそこに座っていなかったとしても、ここには小島さんの酒があるし、同じように土器や焼き物も野菜もあるし。ものを通して会話できるんですよ。囲炉裏番というのは、実はいちばん幸せなんです。




小島
嶋田君の料理は、料理というか嶋田君そのものとしか言いようがない(笑)。酒に対する価値観と一緒で、野菜を味つけで料理しようとしてないじゃないですか。生産者や野菜、畑を敬って、本当の美味しさを、食べる人の幸せにつながる美味しさを伝えようというスタイルですよね。自分で考えて選んでいる。だから、天穏の酒も飲む人に対して、私の代わりにありのまま伝えてもらっているという感じではなくて、嶋田君の感じた天穏を伝えてくれている。何を大切に伝えようかということの表現をしているのは嶋田君なので。最初の出会いは、自分を理解してくれる人でしたけれど、今は”共に生きよう兄弟たちよ”みたいな感じです。私の見ていない景色を見せてくれる、影響を与えてくれる人ですね。


嶋田
有り難いです。僕はよくしゃべるし、アクの強い人間ですけれど(笑)、でも自分の料理がどうこうなんてないですから。店に来てくれた人が、リラックスできたり、何か得るものがあったりしたらいいなと。だから、ここで出会ったものはいくらでも紹介しますし、僕は自分を表現者ではないと思っているので、酒と器とか、器と野菜とか、酒と野菜とか、つくり手である表現者同士のご縁がつながっていくのも嬉しいです。

小島さんは酒造りのシーズンになると、半年近くを酒蔵から離れられないわけで、寒い中ずっと祈りを込めて造り続けていますからね。造りのオフシーズンにこうして店を訪ねてくれた時には、いろんな景色を一緒に見たいなと思っています。この前は土器の熊谷さんと小島さんの対談を店でやりましたけれど、とっても面白かったです。次は熊谷さんの工房へ、小島さんと一緒に行く予定です。調べても見えないような世界を自分で探って調べて実践している人たちですから、会って話をするというのはお互いに刺激があるみたいです。そうしてまた、小島さんは次の酒造りに向かって行くわけで。今度は、僕が出雲を訪ねる番ですかね。